*2024年7月みどりアートパークにて
-みどりアートパークにはどんな印象がありますか?
弾いているときの響きが心地いいです。私は高音で軽く弾く曲が好きなのですが、その高音で思ったような響きをつくりやすいなあと思っています。大きさも、大ホールというと気持ちが萎縮することもあるのですが、お客さまとの距離が私にとってすごく心地いいです。しかも地元で、すごく身近にあるので、好きなホールです。それもあって今年の3月に開催した初めてのソロリサイタルもここに決めさせていただきました。今のところいい思い出しかないので、ここが安心というか、よりどころという感じもしています。
-地元の緑区でピアノにも出合ったわけですね
中山の病院で生まれ、それからずっと中山です。社会人になって東京で1人暮らしもしましたが、留学を志したときからまた中山です。もともと母が自宅でピアノ教室を開いていて、物心ついた時から生徒さんのレッスン中にピアノの下で寝ていたということがあるぐらい、日常の一部だったという感じです。母からやりなさいと言われたわけではないのですが、自然と私もやるものだと思って4歳の時に自分から母に「やりたい」と言いました。
-ピアノをここまで続けてこられた理由はどんなところでしょうか?
小学生からコンクールには出ていて、そこで失敗することもあって悔しい思いはたくさんしましたが、やめたいとは思いませんでした。それがなぜかはちょっと難しいのですが、やはり上達しているというのを実感すると楽しいです。その連続性というか、悔しい思いをしたらまた違う曲で克服して楽しいというのが続いて、いつの間にかここまで続いているという感じだと思います。
-ほかの楽器ではなく、ピアノなのですね
中学校にオーケストラの部活があったので、そこではバイオリンをやりました。本当に趣味として。部活でしか練習しないので、結局ビブラートも見よう見まねのビブラートしかできない感じでしたが。ピアノにこだわらず、いろいろな楽器に興味があります。ピアノだけという気持ちは高校生ぐらいまでそんなになく、ピアノは習い事として得意という分野でしたが、それで生きていこうというのは高校のころは全然考えていませんでした。
-転機は大学進学の時ですか?
そうですね。大学をどうしようという時になってから、けっこう考えるようになりました。本格的にピアノを学びたいと思ったのがちょうど高校2、3年だったので、大学はピアノを学べるのを選択して音大も受験しましたが、一番習いたい先生がいらっしゃったので、東京学芸大学というところを志望して。合格できたのは本当に幸運でした。
-先生のお名前は?
野田清隆先生。本当に素晴らしいピアニストで、ご自分にも他人にも厳しい方で、当時の大学生の私にはちょっときつくて泣いていた毎日でした。でも今思えばそれは愛だった、と思うようにしています。
-先生にそれだけの思いがあったということでしょうか?
厳しいと言っても、「これをこうやって弾きなさい」みたいな厳しさではなく、「この曲についてどれだけ興味があるの? どれだけ勉強したの? そんなんじゃあ興味がないのと同じじゃない」というスタイルの厳しさ。図星だったので、勉強不足というのを実感させられたという感じでした。
-初歩的な技術の話ではなくて、向き合い方についてご指導いただいたという感じでしょうか?
そうですね。自分の姿勢について、お尻をたたかれた感じでした。どう理解しているかで個性も出るだろうし、深いところだと思っています。
-子どものころの上手に弾けるというのとは全然違う世界ですね?
まさにその通りです。高校3年生まで、言われた通りに弾くというのが本当にいいことだと信じていたので。大学1年で、思い通りに弾けたとなったのに、野田先生からは「先生に言われたから弾いてるって感じがするね」と言われて。でも、なぜそれが悪いのか、最初は分かっていなくて、そこから時間をかけて目を覚まさせられたという感じです。
-大学の同期は何人いたのですか?
私のコースは全部で17人で、そのうちピアノは4人しかいませんでした。全員が野田先生に教わるのではなく、1人1人違います。私のほかにも野田先生志望の子がいたので幸運でした。
-同期の演奏を聴いていて感じることはありましたか?
最初はネガティブなものしか思わなかったですね。みんな私より一つ年上で、本番に強いキャラクターでした。私は緊張しい、だったので、試験の日はもう地獄でしたね。私は小田野の「お」だったので、五十音順で最初なのもありました。でも大学を過ごしているうちに、だんだん自分の強みというのが分かってきたというのがあって、それが自信につながってきたのは覚えています。
-自分の強みとして理解できたところはどんなところでしょうか?
大学3年のときにドビュッシーの曲を学び始めて、それが結構、表現がしやすいとか、自分に合ってるなという第一印象がありました。それで浜松のコンクール(PIARAピアノコンクール)に出て、思い切りうまく弾くことができました。それでも1位ではなく2位でしたが、初めて遠出して受けたコンクールで、自分の納得する演奏でこれだけの結果が出せるんだというのがそのとき初めて分かりました。
-ドビュッシーの曲が合ったと思えたのはどんな部分ですか?
ドビュッシーの曲というのは鍵盤にかける重さが、ほんのちょっと、1グラムでも違ったら、表情がガラッと変わるような繊細さあると思っています。その音の出し方が、大変ですがすごく楽しいというのがあります。ドビュッシーがそこから好きになりました。
-ドビュッシーの曲との出会いはたまたまですか?
そのときは野田先生とは別の先生から「やってみたら」と言っていただいたのがきっかけでした。小学校のころから受験期までとてもお世話になっている先生です。私は先生には恵まれていると思います。本当にどの先生もやりたいものをやらせてくださいます。
-小さいころから指導してくださった先生だから小田野さんの個性も分かっておられて、一つの突破口になったのですね。この2位は大きかったですか?
私にとってはすごく大きくかったです。これで自信を持って舞台に立てるかなという感じになりました。自分の安心材料というか、ここが強みだと思えるようになりました。
-これまで海外には行かれていると思いますが、音楽留学について聞かせてください
音楽留学でウィーンに2年間、昨年8月に帰ってきました。ウィーン市立大に行きましたが、それも習いたい先生がいらっしゃったことが決め手になりました。27歳のときに行きました。
-そのタイミングで留学を志したのはなぜでしょうか?
就職して東京都内の私立学校の音楽の先生として、2年間働いていました。そのときに生徒には「自分のやりたいこととか夢とか大事にしたら?」みたいな話をしていましたが、私の中で留学したいという未練みたいなのがあって。大学院の時に、1回留学のチャンスがありましたが、結局、私の意志が弱かったこともあって、自らそのチャンスをけってしまったことがありました。それがずっと残っていて、教員時代にも膨らんできて、こんなんじゃだめだなと思って。それで志しました。20代のうちに行かないと、将来、絶対後悔するなと思いました。
-ちょうどコロナのときではないですか
そうでした。入学試験も全部ビデオで送って、入学試験もオンラインでした。
-一番過酷な時期ですよね
逆によかったのかと思っています。もしコロナがなければ現地に行って弾いて、また帰ってくるというけっこうな行程がありましたから。録画というのも、よく言えば自分が思うように弾けるまで何度も繰り返すことができます。でも結局は一番最初に弾いたのが一番よかったというのも発見でした。貴重な経験でした。
-留学に行かれてよかったですね
よかったです。視野が広がったというのが大きいかもしれないですね。視野が広がると、けっこうオープンになる、力が抜ける状態になって。結局ドイツ語も日本で勉強したのは全然役に立たず、ウィーンで分からないものは分からないと全部オープンにしてからよくなりました。ピアノも、もうやるしかないと。すべていい意味で脱力して、全部向き合えたので、柔軟にものごとに取り組むことができました。曲の勉強も、時間をかけさえすればいいではなくて、町を散歩して何かヒントを得て、また練習する、というようにやると、結構はかどりました。今までのスタイルがいい方向に変わったような気がしています。
-ウィーンという町にそういう雰囲気があるのでしょうか
そうだと思います。町の中を歩いているだけで、実際路上で歌ったり演奏したりしている方もたくさんいますが、音がなくても歩いているだけで音楽が聞こえているような本当に心地いい空気で、ここにシューベルトがいたんだなとか、ベートーベンがいたんだなとか、同じところを歩いているんだなと思うとわくわくしました。
-ウィーンでの地域と芸術家の距離感、地元との交流の機会はありましたか
確かに距離が近いと感じました。音大生の友達のほかにも普通の大学のウィーンの友達もできましたが、全然音楽の専門ではない人たちでも、「この曲知ってる」とか、「こんなんでしょ?」と普通に弾ける人もいました。さすがだな、と思いました。やはり日常的に弾いているのか、弾くことに抵抗がないんです。オペラ鑑賞に行った時も、おじいちゃん、おばあちゃんだけではなく、本当に若い人が男女関係なく、たくさん鑑賞していました。
-オペラのチケットはお安くないのではないですか?
それがすごく安いんです。レベルによって、高いところはすごく高いですが、学生用の立見席は4ユーロでした。今は8ユーロのようですが、当時のレートだと900円以下で鑑賞できたんですよ。その分、2時間以上、立って見なければいけませんが。手が届きやすいというのも多くの人がオペラを楽しむ要因なのかと思ったりしています。
-日本には立見席があるような施設がなさそうですね
日本は座席に座ったら、ちゃんと舞台が見えるのが保証されているのがほとんどだと思います。ウィーンはこの席だと何も見えない、けど安い料金で見られるというところがあります。パイプオルガンの真横は、そこに座ったら本当に何も見えませんが、音だけは聞こえるという面白い席がありました。
-小さな規模のホールもあるのですか?
ちゃんとしたホールという感じではなく、ギャラリーとしても使えるような大きな空間にいすを並べてピアノを置いて、コンサートをやりましょう、という小規模の催しがいろいろなところで行われていると思いました。私も出ました。
-出てみてどうでしたか?
楽しいです。距離が近いし、気軽というか。企画もしやすくて、数日前に予約して、すぐに演奏会を開けるという、気軽な手軽なイメージでした。聴きに来る方もTシャツに短パンだったりしていました。
-お客様は集まるものなのですか?
宣伝にもよりますが、大学が主催だとたくさんお客さんがいらっしゃいました。自主企画のもやりました。自主企画で印象的だったのは演奏だけではなく、知り合いの画家さんが演奏会が始まると同時に絵を描き始めて、演奏会が終わると同時に絵も完成するという美術と音楽のコラボみたいなこところが普通に気軽に企画できていました。こういう企画を日本でやったら面白そうだなと思いました。
-いつかはやりたいですね。アーティストコミットメントの中からそんな企画が出てくると楽しいですね。ピアノアンバサダーも初めてのことですが、どういうことができればいいというのはありますか?
聴いてくださる方も、聴くだけではなくて、やってみたいなの気持ちになっていただいて、一緒にステージに上がったりとか、参加してコンサートをつくるみたいな参加型の演奏会は、楽しいかなと思っています。聞きなじみのある曲、有名な曲、クラシックに限らず、ポップスも取り入れたようなプログラムにしたら、やってみたいという気持ちが生まれるかもしれないです。
-あの曲を自分で弾けたらいいなと思うでしょうからね。秋からいろいろなイベントにご出演いただくわけですが、来年2月の「横山幸雄の公開レッスン&コンサート」には小田野さんをはじめ、吉田翔太さん、笠井萌さんにご出演いただきます
楽しみです。弾く曲はドビュッシーなので、横山先生のアドバイスにどれだけ応えられるか頑張らないと、と思うのと、先生と連弾できる機会をいただけたので、それが本当にうれしくて楽しみです。
-先生と連弾する機会はそれほどないことなのでしょうか?
そうですね。野田先生とはこれまで1回、合奏伴奏というちょっと特殊な形でやらせていただきましたが、それ以外はないです。先生と連弾というのは恐れ多いですし、やってみたいですが、お声をかけていただけたらという感じです。
-緑区民音楽祭様からのご推薦ですね
本当にありがたい。本渡さんには、最初のオーディションのころから本当にお世話になって感謝しています。
-横山先生のレッスンの時には、どんなことを聞いてみたいですか?
抽象的な面で言うと、曲の捉え方の違いですね。こういう捉え方もあるということを知りたいです。私は横山先生にレッスンしていただく曲を結構長く弾いてるので、自分の中でこういうものだというのがありますが、こういう解釈もあるのでは、というのもきっとあると思うので、それを知りたいです。具体的な面で言うと、私はペダルが下手なので、ペダリングについてのコツを教えていただきたいと思います。
-お客様の中に同じ(知りたい)ポイントを持っている方もいるかもしれませんからね。ここで何か気づきを持って帰る方がいらっしゃるかもしれません
そのためにはちゃんと先生に言われたことに対応しないと、そういう発見は生まれないと思うので、そこは本当に対応できるように頑張りたいです。
-このコンサートの見どころはいろいろありますね?
このイベントには笠井さんと吉田さんという2人のピアニストと参加できるので、演奏家同士のつながりもこの機会で強く生まれると思うので、そういうのでも貢献に生かせたらなと思う。
-これまでお二人との接点はありますか?
笠井さんとだけお話はしたんですけど、吉田さんとまだ話せていないという状況です。
-3月には成果を発表する「緑でつなぐサンクスコンサート」が予定されています
実はまだ曲目を決めていないのですが、横山先生にレッスンしていただいた結果のお披露目会で、得たものを発表させていただく機会だと思っているので、それを表現できるように頑張りたいと思います。そして、笠井さんとはいつか連弾とかもできたらいいねとも話していますので、どんなコンサートにできるか楽しみです。
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